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【歴史に消えた参謀】吉田茂と辰巳栄一(8)英国情報が「事変」を変えた(産経新聞)
- 2010.04.26 Monday
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- by qjlyrt13p2
□武官代理として陸軍武官室を取り仕切る
辰巳栄一が英国南部ボーンマスの呑気(のんき)な“研修”と武官補佐官をしてから、まだ1年余しかたっていないころだった。36歳の陸軍少佐に突然、困難な役回りがめぐってきた。急遽(きゅうきょ)、武官代理として陸軍武官室の一切を取り仕切ることになったのだ。
昭和6(1931)年暮れに、大黒柱の駐在武官、本間雅晴が軍縮全権の松井石根の随員としてジュネーブに召し上げられてしまった。満州問題の主たる論争の舞台が国際連盟に移ったからである。
だが、翌年1月には、満州事変が上海事変を誘発していた。とたんにロンドンの空気は怪しくなった。上海はじめ揚子江沿岸には、英国が積み上げた莫大(ばくだい)な権益があったからだ。日本軍が錦州を爆撃すると、日英関係は急角度で悪くなる。世論が日増しに対日批判を強め、英国政府は辰巳に圧力をかけた。
「日本の政府は、現地解決をするだの、事件は不拡大だのといいながら、どんどん事件を拡大しているではないか、いったい日本政府は現地の関東軍を抑えることはできないのか」(中村菊男『昭和陸軍秘史』)
逆に、日本国民は事変報道に興奮していた。それまで大陸進出に批判的だった社会民衆党ですら、事変をきっかけに戦争への支持を明確にした。
■英軍から受けた「好意」
3月になると満州国が建国を宣言して、英国は朝野を挙げて日本を非難した。辰巳はほとんど毎日のように英国陸軍省に呼び出された。
辰巳が東京からの電報に基づいて戦況を説明しても、英国側は少しも驚かない。上海に駐屯する英陸軍司令部のフレミング准将から直接電話で報告を受けていた。同時に、暗号が解読されていた可能性もあった。
それでも、辰巳が英国陸軍省と参謀本部へ日参しているうちに、英国側から好意を受けることがあった。
上海に出兵した1師団半の日本軍が、十九路軍の抵抗にあって悪戦苦闘していたころのことだ。極東課長のドーネー大佐が、昭和2年に排英運動が起こった際の経験を辰巳に語った。この時、英国が上海に援軍として数万の大兵を送り、共産軍と血みどろの戦いを展開したのだという。
「いま日本軍は上海郊外のクリーク地帯に引っかかって苦戦しているようだが、いかに精鋭な日本軍でもわずか1師団半ではとても強力な蔡廷●軍を撃退することはむずかしかろう。さらに思い切って兵力を増加すべきではないか」(『偕行』昭和57年12月号)
辰巳はその旨を東京の参謀本部に打電した。その後、まもなく白川義則大将率いる3師団半の上海派遣軍が送られた。電報が功を奏したのかは不明だが、増派によって蔡軍を撃退することに成功した。
別の機会に辰巳が陸軍省に行くと、いつもの応接室ではなく、極東班長のマイルス中佐の部屋に案内された。大きなテーブルの上に置かれた上海付近の地図を見て、辰巳は息をのんだ。そこには、日支両軍の部隊配置や戦況が「隊標」によって明示されていた。隊標とは展開する部隊の敵味方を識別するマークのことで、辰巳によると「日本軍は赤、支那軍は黒」で表現されていた。しかも英軍情報は早い。
辰巳は中佐の説明を上の空で聞いていた。むしろ、地図上の隊標の位置関係を懸命に頭に刻み込んだ。武官室に戻ると、至急電で東京に送った。黒の隊標は、極東班長の部屋へ行くたびに配置が換わっていた。
ある時、敵軍が退却をはじめた状況が隊標で読み取れた。勇んで辰巳が東京に打電すると、まもなく、軍中央から称賛の言葉が返ってきた。日本は情報戦に勝ったのだ。
■痛感した情報機関の必要性
それにしても、英国はなぜ辰巳に機密情報を漏らしたのか。ある機関による情報リークには、必ず流す側の利害と意図がからんでいる。受け取る方もまた、相手に不純な動機があると知りながら、自国の利益につながると思えば果敢に取り入れる。辰巳の推理はこうだ。
「上海始め揚子江沿岸には、英国は莫大な権益を持っているのに、共産軍の排英運動にてこずっている。この際日本軍の手によってこれを撃滅してほしかった。一方日本軍が上海方面に居座られることは反対である。それで一挙に支那軍を撃退して速やかに撤退してほしかった」(前出)
戦いは英国の注文通りの展開をたどる。増派が成功して5月に上海で停戦協定が成立すると、日本軍は即時撤収した。辰巳が英陸軍省に「日本の上海派遣軍が引き揚げ」を告げると、参謀次長のバーソレミュー中将が「日本軍おめでとう」とスコッチで乾杯した。
中将の乾杯は自国に対するものだったかもしれない。日本の方は、事変勝利の上に英国の対日批判をそぐことができた。いずれにしても、両国の利害は一致していた。英国メディアも歓迎し、「満州事変は日本にとって死活問題だった」と理解を示す論調に変わった。満州が死活問題とは皮肉な表現である。
満州建国の承認問題で国際連盟に派遣された松岡洋右全権は、もっぱら「満蒙は日本の生命線である」とぶちあげていたからだ。そして昭和8年には、当の国際連盟からの脱退に踏み切ることになる。
それにしても、英国の情報収集力と情報操作力は群を抜いていた。彼らは自ら手を汚すことなく、情報を巧みに操って日本軍に中国軍を追い払わせた。辰巳は後年、このときの経験から、日本に本格的な情報機関をつくるべく動くことになる。
いずれにしろ、辰巳発「英軍機密情報」が日本軍を有利に導いたことは間違いない。この功績によって、辰巳は思いがけない報奨金を手にした。参謀本部第2部長の永田鉄山少将から、当時としては法外な3万円の褒賞が送られてきたのである。
機密費だから領収書はいらず、辰巳の自由だから豪胆な遊び心が動く。さっそく、駐英の将校十数人を招いて、一晩、カールトン・ホテルで盛大な宴をはった。
当時の参謀本部はまだ、駐在武官がもたらす情報に耳を傾ける余裕があった。だが、陸軍中央が枢軸派に牛耳られるようになると、作戦参謀に都合の悪い英米情報は握りつぶされた。
積極論が消極論を圧倒し、現状を打ち破る感情論が理性をけ散らした。陸軍の「情報軽視・作戦重視」が、国家の選択を誤らせることになるまで、さほど時間はかからなかった。=敬称略(特別記者、湯浅博)
◇
■軍部批判の自由主義者
満州事変後、日本国内の国家主義のうねりに反旗を翻すのは至難の業だった。論壇では、わずかに東京帝大教授の吉野作造が満州事変に帝国主義的な傾向を読み取っていた(『中央公論』昭和7年1月号)。
だが、軍部を正面から批判したのは同じ帝大教授の河合栄治郎である。1月の『帝国大学新聞』で「国家社会主義の批判」、2月に「国家社会主義台頭の由来」で、国民の中に充満する侵略主義を痛罵(つうば)した。
◇
≪辰巳栄一≫ 戦後の宰相、吉田茂には2人の参謀がいた。経済の白洲次郎と軍事の辰巳栄一だ。再軍備を拒否する吉田に「深く反省する」と言わせた辰巳とはどんな人物なのか。連載はいまだ知られざる知将の生涯に迫る。
●=金へんに皆
・ <四日市南署>留置場の管理ずさん 少年の「携帯使用」問題(毎日新聞)
・ コイも受難、火山噴火で渡欧できず(読売新聞)
・ 明石歩道橋事故 元副署長に公判前整理手続き適用(産経新聞)
・ 舛添氏 離党届を提出 矢野氏も(毎日新聞)
・ 自民・舛添氏が新党検討=荒井氏らに参加呼び掛け(時事通信)
辰巳栄一が英国南部ボーンマスの呑気(のんき)な“研修”と武官補佐官をしてから、まだ1年余しかたっていないころだった。36歳の陸軍少佐に突然、困難な役回りがめぐってきた。急遽(きゅうきょ)、武官代理として陸軍武官室の一切を取り仕切ることになったのだ。
昭和6(1931)年暮れに、大黒柱の駐在武官、本間雅晴が軍縮全権の松井石根の随員としてジュネーブに召し上げられてしまった。満州問題の主たる論争の舞台が国際連盟に移ったからである。
だが、翌年1月には、満州事変が上海事変を誘発していた。とたんにロンドンの空気は怪しくなった。上海はじめ揚子江沿岸には、英国が積み上げた莫大(ばくだい)な権益があったからだ。日本軍が錦州を爆撃すると、日英関係は急角度で悪くなる。世論が日増しに対日批判を強め、英国政府は辰巳に圧力をかけた。
「日本の政府は、現地解決をするだの、事件は不拡大だのといいながら、どんどん事件を拡大しているではないか、いったい日本政府は現地の関東軍を抑えることはできないのか」(中村菊男『昭和陸軍秘史』)
逆に、日本国民は事変報道に興奮していた。それまで大陸進出に批判的だった社会民衆党ですら、事変をきっかけに戦争への支持を明確にした。
■英軍から受けた「好意」
3月になると満州国が建国を宣言して、英国は朝野を挙げて日本を非難した。辰巳はほとんど毎日のように英国陸軍省に呼び出された。
辰巳が東京からの電報に基づいて戦況を説明しても、英国側は少しも驚かない。上海に駐屯する英陸軍司令部のフレミング准将から直接電話で報告を受けていた。同時に、暗号が解読されていた可能性もあった。
それでも、辰巳が英国陸軍省と参謀本部へ日参しているうちに、英国側から好意を受けることがあった。
上海に出兵した1師団半の日本軍が、十九路軍の抵抗にあって悪戦苦闘していたころのことだ。極東課長のドーネー大佐が、昭和2年に排英運動が起こった際の経験を辰巳に語った。この時、英国が上海に援軍として数万の大兵を送り、共産軍と血みどろの戦いを展開したのだという。
「いま日本軍は上海郊外のクリーク地帯に引っかかって苦戦しているようだが、いかに精鋭な日本軍でもわずか1師団半ではとても強力な蔡廷●軍を撃退することはむずかしかろう。さらに思い切って兵力を増加すべきではないか」(『偕行』昭和57年12月号)
辰巳はその旨を東京の参謀本部に打電した。その後、まもなく白川義則大将率いる3師団半の上海派遣軍が送られた。電報が功を奏したのかは不明だが、増派によって蔡軍を撃退することに成功した。
別の機会に辰巳が陸軍省に行くと、いつもの応接室ではなく、極東班長のマイルス中佐の部屋に案内された。大きなテーブルの上に置かれた上海付近の地図を見て、辰巳は息をのんだ。そこには、日支両軍の部隊配置や戦況が「隊標」によって明示されていた。隊標とは展開する部隊の敵味方を識別するマークのことで、辰巳によると「日本軍は赤、支那軍は黒」で表現されていた。しかも英軍情報は早い。
辰巳は中佐の説明を上の空で聞いていた。むしろ、地図上の隊標の位置関係を懸命に頭に刻み込んだ。武官室に戻ると、至急電で東京に送った。黒の隊標は、極東班長の部屋へ行くたびに配置が換わっていた。
ある時、敵軍が退却をはじめた状況が隊標で読み取れた。勇んで辰巳が東京に打電すると、まもなく、軍中央から称賛の言葉が返ってきた。日本は情報戦に勝ったのだ。
■痛感した情報機関の必要性
それにしても、英国はなぜ辰巳に機密情報を漏らしたのか。ある機関による情報リークには、必ず流す側の利害と意図がからんでいる。受け取る方もまた、相手に不純な動機があると知りながら、自国の利益につながると思えば果敢に取り入れる。辰巳の推理はこうだ。
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中将の乾杯は自国に対するものだったかもしれない。日本の方は、事変勝利の上に英国の対日批判をそぐことができた。いずれにしても、両国の利害は一致していた。英国メディアも歓迎し、「満州事変は日本にとって死活問題だった」と理解を示す論調に変わった。満州が死活問題とは皮肉な表現である。
満州建国の承認問題で国際連盟に派遣された松岡洋右全権は、もっぱら「満蒙は日本の生命線である」とぶちあげていたからだ。そして昭和8年には、当の国際連盟からの脱退に踏み切ることになる。
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